*ハインリヒ・クレーマー&ヤーコプ・シュプレンガー『魔女への鉄槌』(1486/87年)  Henricus Institoris and Jacobus Sprenger, Malleus maleficarum (1486/87)

 

【解説】

 中世末から近世にかけて執筆されたあまたの悪魔学論書のなかでも、『魔女への鉄槌』は間違いなくもっとも重要な文献である。同書は魔女術に関する最初の百科全書であり、魔女の脅威を世に知らしめるとともに、魔女を裁く裁判官たちのための手引き書として執筆された。そうした裁判マニュアルとしては、異端審問のための手引き書の体裁を踏襲している。そのことは、同書のタイトルからも伺える(『異端者への鉄槌』という書名の異端審問の手引き書の存在が知られている)。

 筆者は二人のドミニコ会修道士の異端審問官、ハインリヒ・クレーマー(ラテン名ヘンリクス・インスティトリス、一四三〇頃~一五〇五)と、ヤーコプ・シュプレンガー(一四三六~九五)である。ただし、共著における二人の役割の詳細は不明である。おそらくクレーマーが実質的な執筆者であり、ケルン大学神学部教授だったシュプレンガーの名前は箔づけとしてつけ加えたと考えられている。

 同書は伝統的なスコラ学書の構成に倣い、計三部に分かれている。第一部は、魔女術にともなう三要件、つまり悪魔、魔女、そして全能なる神の許しについて。第二部は、魔女術の作用がもたらされる仕組み、およびそれを無効にするための方法について。そして第三部は、魔女およびすべての異端者にたいする教会と世俗の両裁判所における訴訟手続きについてとなっている。


【出典】

*Kramer, Heinrich & Sprenger, Jacob, The Malleus Maleficarum of Heinrich Kramer and James  Sprenger, translated with Introductions, Bibliography and Notes by Rev. Montague Summers, New York, Dover, 1971, pp.41-44, 47; Henricus Institoris and Jacobus Sprenger, Malleus maleficarum, 2 vols, edited and translated by Christopher S. Mackay, Cambridge, Cambridge Univ. Pr., 2006, pp.111-117.

 

 

第一部 問題六 悪魔と性交する魔女について。なぜ女は悪しき迷信に染まりやすいのか。


 [前略]なぜ迷信はおもに女のうちに見いだされるのか。

 第一の問題として、なぜ魔女の多くは男よりもか弱い女の性のうちに見いだされるのか。それは反論しようのないことに違いない。というのも、このことは信頼できる目撃者による証言にもまして、日常の経験によって、確かだと思えるからである。この事実にたいしては、神が女を見くだすことでつねに立派な行いをなさったということは別として、さまざまな人々がさまざまな理由を挙げているも。ただし、そうした理由はどれもつねに基本的に一致している。よって、この話題は慎重に提起されるかぎり、(日常の経験で往々にして示されているように、女というのは熱心に話を聞きたがるものなので)、女をたしなめる目的で説く価値がきわめてある。[中略]

 シラ書25[:15](1)では、女の悪について次のように述べられている。「蛇の頭よりも恐ろしい頭はない。女のかんしゃくほど始末に負えないものはない。獅子や竜と住むほうが、悪妻と暮らすよりはましである」。そして悪しき女について、同書の同じ章で次のように結論的に述べている。「たちの悪い妻ほど始末に負えないものはない」(2)。だから、クリュソストモス(3)は「妻を迎えない方がましです」(4)という文章に照らして、次のように述べたのである。「女はまさに友情の敵であり、逃れられない罰、必要な悪、自然の誘惑、魅惑的な災い、家庭内の脅威、悦ばしい損失、自然の悪、そして良き色で塗られたものにほかならない。したがって、もし女と離縁するのが罪にあたり、女を留めておかなければならないとしたら、われわれ男は女を追い払って姦淫を犯すか、それとも諍いの日々を送るかという責め苦を蒙らざるをえなくなる」(5)。キケロは次のように述べている。「男はさまざまな欲望に駆られてそれぞれ悪しき行為に及ぶが、女は一つの欲望からあらゆる種類の悪しき行為へと及ぶ。なぜなら、女のあらゆる欠点の根源は貪欲だからである」(『修辞学書』第二巻)(6)。セネカはその悲劇で次のように言っている。「女は愛するか憎むかのどちらかである。それ以外の事柄などない。女が泣くのは見せかけである。女が流す涙には、本当に悲しい涙と偽りの涙との二種類がある。女が一人で考え事をすると、悪しきことを考える」(7)。

 いっぽう、良き女にたいする賞賛の言葉もあり、男を幸福にし、国や町を救ったという女たちの記述もうかがえる。ユディトやデボラやエステルに関しては明らかにそうである(8)。よって、使徒[パウロ]は次のように述べている。「ある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼を離縁してはいけない。なぜなら、信者でない夫は、信者である妻ゆえに聖なる者とされるからである」(コリントの信徒への手紙 一 7[:13])。このため、シラ書26[:1]では、「良い妻を持った夫は幸福である。彼の寿命は二倍になるだろう」と述べられている。同書のまるまる一章にわたって、良妻の素晴らしさにたいする数多くの賛辞が列挙されている。箴言の最終章[31:10-31]における「有能な妻」の記述も同様である。女性に関するこうした肯定的考えは、新約聖書でも明らかに見てとれる。たとえば、不信心な国や王国の人々を偶像数像崇拝からキリスト教へと導いた童女や聖女たちの場合がそうである。[中略]

 しかし、別の者たちは、女のほうが男よりも往々にして迷信深いさまざまな理由を挙げている。第一に、女は信じやすいということである。悪魔は基本的に信仰を損なおうとするので、とくに女を標的にする。このため、シラ書19[:4]において、「すぐに人を信じる者は、心が浅はかである」と述べられているのである。第二の理由は、女は気質が不安定な傾向にあるため生まれつき影響を受けやすく、肉体のない霊に影響されてお告げを受けやすいということである。女はこの気質を上手に使えばとても善良であるが、間違って使うと悪しき女となる。第三の理由は、女は口が軽く、自分が悪しき業をつうじて知った事柄を女友達にほとんど隠しておけないということである。そして、女は肉体的な強さに欠けているために、すぐに魔女術によってひそかに復讐しようとする。このため、「獅子や竜と住む方が、悪妻と暮らすよりはましである」、「たちの悪い妻ほど始末に負えないものはない」(シラ書25、先に引用済)と述べられているのである。次の理由も挙げることができる。すなわち、女は気持ちが移ろいやすいので、実際にしているとおり、すぐに子供を悪霊に捧げることができるのである。

 さらに別の理由を挙げる者たちもいる。説教者はそうした理由を注意して語らなければならない。聖書に関しては、旧約聖書はほとんどの場合、最初の罪人(エバ)とその模倣者たちのために、女の悪い点について述べている。しかし、のちの新約聖書においては、(エバからアベへと)名前が変わったため、また聖ヒエロニムスが説いているように、「エバの災いによりもたらされたあらゆる悪は、聖母マリアの恵みによって取り除かれた」ために、女についてつねに称賛とともに説いている記述がとても数多く見られる。ところが、今日においては、日常の経験が示しているように、信仰の破棄のたぐいは男よりも女のうちにしばしば見受けられる。そして、その理由をいままで述べたよりもさらに注意深く突きとめることにより、次のように言うことができる。すなわち、女は心においても肉体においてもそのあらゆる能力に欠陥があるために、嫉妬を感じた相手にたいして、男の場合よりも魔女術をかけるとしても当然なのである。というのも、女は知性や霊的事項の理解という点から見ると、男とは異なっていると思われるからである。このことは、権威ある証言、理性、そして聖書のさまざまな実例によって示されている。テレンティウスは、「女は概して子供のようであり、些末な見解を抱く」と述べている(9)。ラクタンティウスは『神的教理』3[:25]において、テミスト以外の女は哲学を知らなかったと述べている(10)。また、箴言11[:22]は、女のたとえとして、「知性に欠けた美女は、豚の鼻を飾る金の輪のようである」と述べている。そのもっともな理由は、女が男よりも肉欲的であるからだ。それは女のあまたの卑わいな肉欲の行為において明らかである。この欠点は、女が最初にかたちづくられた様子においてもうかがえる。すなわち、女は湾曲した肋骨から作られたが、つまりはねじ曲がった、いわば男とは相容れない胸の肋骨から作られたのである。この欠点から、女は不完全な生き物であり、そのためたえず人を欺いており、そのせいでつねにあてにならないという事実も生じる。カトーは、「女は涙でもって陥れようとたくらむ」と言っている(11)。また、巷では「女は泣いて夫を騙そうとする」と言われる。これは、サムソンの妻の場合に明らかに見てとれる。彼女は、サムソンが同族の者たちにかけた謎の答えを教えてほしいとしつこくせがみ、聞きだした答えを彼らに漏らし、夫を欺いたのである(12)。女が生まれながらにして誠実さに劣ることは、人類最初の女においても明らかである。すなわち、最初の女はヘビになぜ楽園の木の実を食べないのかと聞かれて、「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」と答えた(13)。この件で、彼女は神の言葉を疑っており信用していないことが示されている。これらすべてのことは、女という名詞の語源からも示されている(14)。すなわち、[ラテン語で女を意味する]「フェミナ」[femina]という言葉は、「フェ」[fe]と「ミヌス」[minus]よりなっている。なぜなら、女は、誠実さ[ラテン語でfidem、しばしばfeと縮約される]が、より少ない[ラテン語でminus]からである。これは誠実さに関する本性ゆえである。ただし、聖母マリアの場合には、キリスト受難のときにすべての人々が誠実さを欠いていたのにたいして、恩寵と本性の両方の結果から、けっして誠実さを欠くことはなかったが(15)。したがって、女はその本性の結果として悪であり、そのため信仰においてよりすみやかに疑いを抱く。また、よりすみやかに信仰を否定する。これこそ、女が魔女術という行為に手を染める根本的な理由にほかならない。[中略]

 結論。[女においては]すべてが肉欲に支配されており、女は肉欲に飽くことを知らない(箴言の最終章から一つ前の章では、「飽くことを知らぬものは三つ。十分だと言わぬものは四つ。すなわち、子宮の口......」(16)と述べられている)。そのため、女は欲望を満たそうとして悪霊とでさえ戯れる。さらなる証拠を挙げることも可能である。しかし、賢明な人々ならば、女が男よりも魔女術の異端に染まっているのは至極当然であると思えるだろう。したがって、名前は多数のものにちなんでつけられるため、魔術師の異端よりも魔女の異端と呼ぶほうがふさわしいであろう。至高なる神に感謝である。神は今日にいたるまで男をあの不埒な行いからお守り下さり、男にはっきりと特権をお与えになった。その証拠に、神は男の姿をまとって、私たちのために生誕し受難するよう望まれたのだから。

 

【訳註】

(1)シラ書25:15-16。シラ書(または集会の書)は旧約外典中最大の文書。

(2)同書25。

(3)347頃~407、初期キリスト教の聖職者、神学者。コンスタンティノポリス済司教。

(4)マタイによる福音書19:10。

(5)『マタイによる福音書に関しての教話』三八。

(6)『ヘレンニウスに与える修辞学書』4:23。ただし、同書はエラスムス(1466-1536)の研究以来、キケロの著作ではなく、キケロ周辺の作者が書いたとされている。

(7)この言葉はじつはセネカではなく、 紀元前一世紀ローマの詩人プブリリウス・シルス (BC85?~BC43?)による。

(8)三人とも旧約聖書に登場する勇敢な女性。ユディトは一計を図って敵将ホロフェルネスの首をとり、包囲されていたイスラエル人の町を救う(ユディト記8-16)。デボラはイスラエルの女預言者で、敵国カナンを討つよう武将バラクに命じた(士師記4-5)。エステルはペルシア王アルタクセルクセスの妃となったユダヤ人の娘で、王に願いでて祖国を滅亡の危機から救った(エステル記7)。

(9)『ヘキュラ』3:1。テレンティウスは紀元前二世紀ローマの喜劇作家。

(10)ラクタンティウスは北アフリカ生まれの初期キリスト教の護教家。主著『神的教理』[Divinae Institutiones]。テミストとは、掟を神格化したギリシアの女神テミスをさす。

(11)カトー『二行詩』3.20。カトー(大)(前二三四~一四九)はローマの政治家、雄弁家。

(12)士師記14。

(13)創世記3:2-3。

(14)以下のばかげた語源解釈は、『鉄槌』の代表的な反女性的言辞の一つである。ただし、この解釈は同書の独創ではなく、フィレンツェの聖アントニヌス(1389-1459)の『道徳神学大全』の文章をそっくり借用したものであり、もとはセビーリャの聖イシドルス(五六〇頃~六三六)の『語源論』に由来する。

(15)諸福音書によれば、イエスが捕縛されると使徒たちも彼から離れたが、母マリアだけは磔の場に赴き見守り続けた。

(16)箴言 30:15-16。

 

 

[出典:田中雅志 編著・訳『魔女の誕生と衰退 ― 原典資料で読む西洋悪魔学の歴史』 三交社 2008年] 

 

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