【解説】
悪魔学の歴史においてもっとも有名でかつ論争の的になった文書が、『司教法令』である。この権威ある文書が初めて世に知られたのは、九〇六年頃にドイツの教会法学者であるプリュムのレギーノが編纂した法令集においてであった。この法令集は、レギーノがトリーアの大司教から、司教たちが自分の管区の視察の際に使用できるような教会規律の手引き書を作成するよう依頼されて編纂したものである。
この法令集には、聖職者や平信徒が従うべきさまざまな教会規律が収録されている。たとえば、第二巻の第五章四三では、樹木や泉や石にまるで祭壇であるかのように捧げ物をする者が非難されている。また、同巻の第五章四五では、聖職者は次のような女がいたら問いたださなければならないとしている。つまり、自分はまじないでもって愛を憎しみに変え、憎しみを愛に変えるなど、人の心を変えることができるなどと言う女、または人の持ち物を奪ったり損害を与えることができると言う女である。さらに、自分はある集団に属していて、そこでは女のような姿に変身した悪霊とともに、夜な夜な動物の背に乗っているなどと言う女がいたならば、聖職者はそうした女を自分の教区から追放するようにと述べている。この第五章四五は、以下に訳出する『司教法令』の縮約版とされている。
そして、第二巻の第三七一章にあたるのが、有名な『司教法令』である。この文書は、いまは現存しない九世紀の教会法規がもとになっていると考えられている。レギーノはおそらく、この九世紀の教会法規を自分の蔵書のなかから見つけ、それに手を加えたうえで、自分の法令集に収録したと思われる。
レギーノの法令集には、三一四年のアンキュラの宗教会議で定められた法規が含まれている。そのため、『司教法令』も同会議に由来すると見なされてきた。しかし、先述したとおりこの見解は誤りである。
『司教法令』はそののち、ヴォルムスのブルカルドゥスやシャルトルのイヴォによる教会法規に収められ、一一四〇年にはイタリアの修道士で教会法学者のグラティアヌスによる『グラティアヌス法令集』に収録されるにいたった。なお、『司教法令』という表題は、その冒頭の言葉「司教〈エピスコピ〉......」をとって、後世につけけられたものである。
『司教法令』は、二つの異なった内容からなっている。つまり、以下の訳文で、「キリスト教会はこの悪疫の浄化につとめなければならない」までの箇所は、妖術やマレフィキウムという異端を根絶するよう述べている。しかし、それ以降はもっぱら、夜の飛行や集会は幻覚にすぎず、それが実在すると信じるのは誤りであり、不信心であると指弾する内容となっている。ある研究者によれば、レギーノは二つの異なるテキストをつなぎ合わせたと推測している。
こうした後段の内容が、サバトや魔女術の実在を説く後世の悪魔学者たちの主張と正反対であることは明らかである。そのため、彼らにとっては、権威ある『司教法令』とどう折り合いをつけるか、またはそれをどのように切り崩すかが、大いなる問題となった。たとえば、まず最初にこの難問に取り組んだニコラ・ジャキエは、『司教法令』が述べる誤った思い込みをしている女たちと、今日における異端の集団である魔女たちとは、そもそも違うのだと主張した。また、『魔女への鉄槌』は、夜の飛行やサバトなどが錯覚か空想にすぎないことは往々にしてあるものの、すべての魔女術の効果までをもたんなる錯覚か空想であると見なすのは大いなる思い違いであり、『司教法令』の真意を見誤っている、と論じている。
【出典】
*Henry Charles Lea, Materials toward a History of Witchcraft, 3 vols, New York, AMS Pr., [n.d.], vol.1, pp.178-180.
【邦語参考文献】
*ノーマン・コーン『魔女狩りの社会史:ヨーロッパの内なる悪霊』、山本通訳、岩波書店、1983年、291-303頁。
*ロッセル・ホープ・ロビンズ『悪魔学大全』、松田和也訳、青土社、1997年、263ー266頁。
司教および教会裁判所判事は、自分たちの担当する教区から、悪魔の考案になる有害な妖術やマレフィキウムのたぐいを根絶するべく、またもしそうした邪悪なものを信奉する男女を発見したならば、汚辱にまみれた彼らを教区より追放するべく、全力を注がねばならない。なぜなら、使徒[パウロ]は次のように述べているからである。「分裂を引き起こす人には一、二度訓戒し、従わなければ、かかわりを持たないようにしなさい」(1)。これらの輩は悪魔に囚われた者であり、その創り主を離れて悪魔の助力を求める者である。したがって、キリスト教会はこの悪疫の浄化につとめなければならない。また、サタンに身を委ね、悪霊の幻覚幻想に惑わされたよこしまな女たちが、以下のようなことを信じ、かつ告白していることも無視してはならない。すなわち、その女たちは、真夜中に異教の女神ディアナや数え切れないほどの女たちとともに、獣に乗って夜のしじまに広大な距離を飛行し、女主人である女神ディアナの命令に従い、また別の夜にはディアナに仕えるために呼び集められるという。その不信心によって滅びるのが自分たちだけであり、その他の大勢の者をその不信心の破滅に引きずり込むことがないならば、それでもよいであろう。だが、数え切れないほど多くの人々がこの誤った意見に惑わされ、それを真実と信じ、そしてそう信じるがゆえに正しき信仰の道からさまよい出て、異教の誤謬に陥り、唯一なる神のほかになにか神や力のようなものが存在すると考えているのである。それゆえ、司祭はそのすべての教会において、こうしたことはまったくもって誤りであり、かかる幻想は聖なる霊ではなく悪しき霊によって不信心者の心に植えつけられたものにほかならないと、自分たちの信徒にたいして断固として説き聞かせなければならない。こうした幻想で、光の天使へと姿を変えているサタンは、哀れで思慮の足りない女性の心を捉え、不信心と懐疑によって彼女をみずからに従わせてしまうや、ただちに別人の姿となって、自分が捕えた相手の心を欺き、楽しいことや悲しいこと、知っている人や知らない人の姿を示し、狡猾なやり方で相手の心を操る。そして、こうしたことは霊だけが体験しているにすぎないにもかかわらず、不信心な心の持ち主は、これは霊ではなく肉体に起こったことであると思い込んでしまうのである。夢や夜の夢想のなかでは、自分が自分のからだから離れたりするものだし、また睡眠中は目覚めているときには見たことのないものをたくさん見たりするものだ。霊のなかでのみ起きるこれらすべての事柄が肉体において起きていると考えるような愚かな者がいるだろうか。預言者エゼキエルは神の幻視を肉体ではなく霊において見たのであり、使徒ヨハネも肉体ではなく霊において黙示録の秘儀を見聞きしたのである。ヨハネは次のように述べている。「わたしは、たちまち"霊"に満たされた」(2)。そしてパウロも、楽園へとひき上げられたある者が肉体をそなえたままであったとは断言していない(3)。そこで、次のようにあまねく宣告すべきである。すなわち、あのような事柄、または類似の事柄を信じる者は、何人といえども信仰を失う。そして、神への正しい信仰を持たない者は神の僕〈しもべ〉ではなく、その者が信じる存在の僕、つまり悪魔の僕である。なぜなら、われらが神について、次のように書かれているからである。「[言葉は神であった......]万物は言〈ことば〉によって成った」(4)。それゆえ、万物を創造され、万象をあらしめた創造主によらずしても、なにか創ることができると信じる者、あるいはなにか被造物を変えたり、改良したり改悪したり、あるいはまた別の種などに変化させることができるなどと信じる輩は、疑いなく不信心者にほかならないのである。
【訳註】
(1)テトスへの手紙 3:10。
(2)ヨハネの黙示録 4:2。
(3)コリントの信徒への手紙二 12:2-5。
(4)ヨハネによる福音書 1:1-3。
[出典:田中雅志
編著・訳『魔女の誕生と衰退 ― 原典資料で読む西洋悪魔学の歴史』 三交社 2008年]