【解説】
ジャン・ボダン(一五二九/三〇~九六)は近世フランスの経世学者、法学者、著述家であり、当代随一の大学者であり人文学者〈ユマニスト〉である。フランス北西部アンジェのブルジョワ家庭に生まれ、華々しい立身出世を望んだものの叶わず、著述家としてもっとも成功を収めたといえる。
ボダンは歴史、政治、経済、法律、宗教など広範な分野におよび数多くの著作を著した。なかでも主著『国家論』(一五七六)では、時代にさきがけて近代的な主権の概念を説き、中央集権国家を理論づけた。経済学の分野では、フランスでいち早く貨幣の流通機構とインフレの原因を解明している。また宗教については、フランス国内を二分した流血のユグノー戦争の時代にあって寛容を主張した。
ボダンは一五八〇年パリで『魔女の悪魔狂』(以下『悪魔狂』と略する)を出版した。初版はフランス語であり、翌年にはラテン語版が出版され、全部で四カ国語、少なくとも二十三版を超える大ベストセラーとなった。ところが近代以降、この悪魔学の古典は近世フランス随一の大学者の評価を著しく損なうこととなった。ボダンについて論じた人々は、「近代的」で「合理的」で「寛容」なボダンと、『悪魔狂』における「不寛容」で「迷信的」なボダンとの矛盾やギャップに当惑を表明してきた。当代きっての卓越した知性が、なぜあのように忌まわしい魔女妄想の書を著したのかと。しかし、近年の研究では、『悪魔狂』と『国家論』等とのあいだには、本質的に共通する見解がうかがええるとする主張が示されている。そうした主張によれば、両者が「矛盾」して見えるのは、近現代人の心性でもって異なる時代の思想家を解釈した結果であるとしている。
『悪魔狂』の内容を簡潔に述べておこう。まず序文では、執筆の動機、書名の由来、そして執筆の目的について述べている。本論は全部で四巻に分けられているが、実質的には三つの部分に分けられる。その第一の部分である第二巻第三章までは、魔女や魔術や悪魔に関するおおむね理論的な論述となっている。第二の部分は第三巻終わりまでで、魔女と悪魔との性交といったさまざまな魔女術信仰や、魔女術犯罪の重大性について論じている。そして最後の第三部にあたる第四巻は、魔女裁判における訴追手続きについて論じている巻末には、「ヨーハン・ヴァイヤーの意見への反駁」が付論として収められている。
『悪魔狂』におけるボダンのねらいを簡潔に述べれば、魔女犯罪の特殊性を強調し、魔女犯罪に関する証拠の規則をゆるめ、この犯罪を嬰児殺しのような例外的な重罪として厳重に取り締まるよう当局者に勧める、ということになるだろう。というのも、宗教戦争の動乱の時代にあって、ボダンは何よりも秩序というものを重視していたからである。彼の考えでは、公益は秩序に依存し、社会秩序は確固とした適切に機能している国家のもとでのみ存在しうるとされる。よって国家に背く者は重大な大逆罪を犯しているのであり、ましては神に背く者、つまり魔女にいたっては、さらなる重罪を犯しているとされる。
従来の定説では、『悪魔狂』はそののちのフランスの魔女狩りに多大な影響を与えたとされてきた。しかし近年の研究はこの説に疑問を呈している。ボダンはその宗教的立場をめぐり異端の疑惑をもたれており、また悪魔学の理論においても非正統的な見解を説いていた。そのため、同書は当時フランスの多くの悪魔学者たちから神学的に正しくないとされ、危険視されていた。その証拠に、一五九〇年代には、ボダンの主著は『悪魔狂』を含め、カトリック当局によって禁書にされている。したがって、同書の影響力は著しく減じたと推測される。
フランスではそのうえ、下級審の裁判所はともかくとして、高等法院では穏健派が主流を占めており、魔女裁判においても訴訟手続きがおおむね遵守されていた。ボダンのように魔女術を例外的犯罪として厳罰に処すべきであると主張する議論は、法曹エリートのあいだでは、基本的に受け入れられていなかったのである。こうした「憂慮すべき」状況にあったからこそ、ボダンは『悪魔狂』を執筆したもといえよう。後世の悪魔学の著作にボダンの名が頻繁に登場し、理論のうえで相当の影響をもたらしたのは確かである。しかしながら、現実の魔女迫害に及ぼした実際的影響のほどまでは定かではない、というのが妥当な見解であると思われる。
【出典】
*Jean Bodin, De la démonomanie des sorciers, Paris, Chez Iacqves dv-Pvys, Libraire Iuré, à la Samaritaine, 1587.
*翻訳に際しては次の資料を参照した。Jean Bodin, On the Demon-Mania of Witches, translated by Randy Scott, abridged with an introduction by Jonathan Pearl, Toronto, Centre for Reformation and Renaissance Studies, 1995.
【翻訳】
序文
一五七八年四月末日、私も審理に加わったある魔女にたいする裁判が決着を見たが、私はこの魔女裁判を契機として、誰にとっても不可思議で、多くの者には信じがたい魔女という問題をいくらかでも解明せんとして、筆をとった次第である。その魔女はジャンヌ・アルヴィリエという名前で、コンピエーニュ近郊ヴェルベリーの生まれであり、多くの人間や動物を死に至らしめたとして告発されていた。彼女は初めのうち自白をかたくなに拒み、供述を二転三転させたものの、やがて拷問なしで自白した。また、十二歳のとき母親に連れていかれ、並はずれて背が高く色黒で黒い服を着た悪魔に差しだされたとも自白した。なお、彼女が母親から聞いた話では、母親は生まれたばかりのジャンヌを悪魔に捧げる約束をして、悪魔からよい待遇と幸福とを約束されたという。その十二歳のときから、ジャンヌは神を拒絶し、悪魔に仕える約束をしていた。それと同時に悪魔と性交するようになり、逮捕される五〇歳くらいまで関係を続けていた。ジャンヌはさらに、悪魔は自分が望めばやって来たとも供述している。悪魔は初めに現われたときといつも同じ身なりと姿をしており、拍車のついたブーツを履き、脇に剣をさし、戸口に馬をともなっていたという。しかし、それらは彼女以外には見えなかった。この悪魔はまた、横に寝ているジャンヌの夫に気づかれることなく、彼女と性交することもあったという。[中略]
なかには、こうした魔女の事件が不可思議で信じられないという者たちもいる。それゆえ、私は本論書を執筆しようと心に決め、魔女たちが悪魔を追い求めるその熱狂ぶりにちなんで、『魔女の悪魔狂』という書名をつけた。その目的は、読者すべてに警鐘を鳴らし、これほど邪悪で、これほど重い刑罰に値する犯罪はないとはっきり知らしめるためである。もう一つの目的は、書籍において魔女を躍起になって救おうとしている者たちに反論するためである。そうした者たちは、魔女擁護の書を出版するようサタンにそそのかされ、その一味へと引き込まれてしまったと思われる。そうした者の一人が、学者のピエトロ・ダバーノ(1)であった。ダバーノは、霊など存在しないと説いていたが、のちになってイタリアにおける魔女の頭目の一人であることが判明したのである。[以下略]
第一巻
第一章 魔女の定義
「魔女」とは、悪魔的な手段を用いて故意に何事かをなそうともくろむ者である。私がこの定義を定めたのは、本論書を理解するうえで必要であるだけでなく、魔女にたいしてどのような審判を下したらよいかを理解するうえでも必要だからである。この定義は、魔女について記述してきたすべての者がこれまで見落していた事柄である。しかしながら、それは本論書を支える基盤となるものである。それでは次に、この定義を詳しく検討していくことにしよう。まず第一に、私は「故意に」という用語を使用した。というのも、過失には、法律で規定されているように、いかなる同意も含まれえないからである。したがって、ある善良な病人が、相手はまともな人物だと思って魔女から悪魔的な処方薬を受けとり使ってしまった場合、この病人は魔女ではない。というのも、その病人には、知らなかったという正当な理由があるからである。しかし、もしも魔女から本当のことを知らされていたり、またはときどきに起こることであるが、その人の前に悪霊が呼びだされたりする場合には、その限りではない。[以下略]
【訳註】
(1)ダバーノ(Pietro D'Abano, Lat. Petrus Aponus/Aponensis, 1250頃-1315)。イタリアの学者。パドヴァ大学で医学、哲学、占星術を教授。晩年、異端の嫌疑により異端審問所の尋問を受けた。
[出典:田中雅志
編著・訳『魔女の誕生と衰退 ― 原典資料で読む西洋悪魔学の歴史』 三交社 2008年]