【解説】
インノケンティウス八世(在位一四八四~九二)は、魔女迫害の歴史においてもっとも重要な影響を及ぼした教皇の一人である。
その理由は、彼が在位初年に発した教書『スンミス・デシデランテス・アフェクティブス』(このうえない熱意でもって願いつつ)による。この教書のおもな目的は、ドイツに派遣された二人のドミニコ修道会の異端審問官、インスティトリス(ドイツ語名ハインリヒ・クレーマー)とヤーコプ・シュプレンガーにたいして、ドイツ各地での魔女訴追のための司法権限を与えることにあった。神学者でもあるこの二人の異端審問官は、その職務の遂行にあたって、ドイツ各地の世俗の司法当局者から抵抗にあうとともに、『司教法令』の権威を重んじる各教区の聖職者からも抵抗にあっていたためである。こうした教書の存在は、魔女迫害の初期においても、教会裁判所が魔女術の犯罪を裁くうえで司法権限を独占していたわけではないことをうかがわせる。
インノケンティウス八世、前名ジョヴァンニ・バティスタ・チーボ(一四三二~九二)は、ローマ元老員議員の子としてジェノヴァに生まれる。ナポリで放埒な生活を送り、三人の私生児をもうけるが、やがて改心して司祭となり、三五歳でサヴォーナ司教、四一歳で枢機卿となり、八四年には教皇に選出されて死ぬまでその位にあった。その治世は混乱続きであり、ナポリをはじめイタリア諸都市と対立し、相次ぐ戦争により教皇庁の財政を悪化させた。そのいっぽうで、教会の風紀を正そうとして魔術を非難し、ピコ・デラ・ミナンドラの命題を譴責したり、トルケマダを大審問官に任命している。しかし、こうした改革もいたずらに教皇領を混乱させただけに終わった。なおR.H.ロビンズは、インノケンティウス八世が晩年に輸血で若返ろうとして三人の少年を死に至らしめたというエピソードを伝えている。
『スンミス・デシデランテス・アフェクティブス』は、その知名度にもかかわらず、従来の教書と比べてとくに目新しい要素は存在しない。すでに以前の歴代教皇も、キリスト教信仰を守るという名のもとに、異端審問官に同様の司法権限を与えていた。また、この教書は魔女迫害のきっかけとなったと長らく考えれてきた。しかし、この教書は作物を枯らし人間や動物の生殖力を損なうといったもっぱらマレフィキウム(悪行)として魔女術を捉えており、魔女術という犯罪の定義においてもいまだ重要な変更を示していない。つまり、サバトやサバトでの悪魔崇拝や悪魔との契約という魔女術の主要要件については、いまだ言及していないのである。
それにもかかわらず、同教書はよく知れ渡り、魔女迫害に大きな影響を及ぼすことになった。その理由はひとえに、この教書が『魔女への鉄槌』という魔女狩り人たちのバイブルとなる悪魔学最大の古典に序文として掲載されたことによる。
【出典】
*Burr, George Lincoln, The Witch-Persecutions, in Translations and Reprints from the Original Sources of European History, vol.3, no.4, Philadelphia, Pa., Department of History of the University of Pennsylvania, 1907, pp.7-10.
*翻訳に際しては次の資料を参照した。Henricus Institoris and Jacobus Sprenger, Malleus maleficarum, 2 vols, edited and translated by Christopher S. Mackay, Cambridge, Cambridge University Press, 2006,
vol.2, pp.19-22.
【翻訳】
神のしもべのなかのしもべ、司教インノケンティウス(1)、本書状が記憶にとどめられんことを。今日あらゆる場所において、カトリックの信仰ができるかぎり成長し盛んになるよう、またすべての異端の腐敗が信徒たちのもとから駆逐されるよう、私は牧者の配慮に必要とされるような、このうえない熱意でもって願いつつ、進んで本書状を宣言し、あらためて布告するものである。それによって、私の敬虔な望みは成就し、あらゆる過ちは賢明な農夫の鍬のような私たちの労苦によって根絶され、私の信仰への熱意と献身は信仰深き者の心にますます強く根付くであろう。
大いに憂慮せざるをえないことに、近ごろ私のもとには次のような知らせが伝えられている。すなわち、高地ドイツの各地、ならびにマインツ、ケルン、トリーア、ザルツブルク、そしてブレーメンのそれぞれ地方、都市部、領地、地区、そして教区では、数多くの男女がおのれの救いを忘れ、カトリックの信仰から逸脱しているという。彼らはインクブスやスクブスと不埒な行為におよび、臆することなく呪文、詠唱、まじない、その他の言語道断な迷信行為、妖術、それに非道な行為や犯罪や悪事に手を染めている。その目的は、女の子供、動物の子、大地の作物、ブドウの実、樹木の果実、それに男、女、牝牛や羊その他のさまざまな家畜、さらにブドウの木、果樹園、畑、牧草地、小麦、穀物、その他の大地の作物を損ない、そして根絶やしにするためである。それにくわえて、男、女、家畜、乳牛、羊、そして動物を内側と外側の両方から激しい苦痛と責め苦で苛むとともに、男女が夫婦の営みにおよぶ能力を妨げることによって、男には子が授からないよう、女には妊娠しないようにする。こうした目的のために、彼らは洗礼によって授かった信仰を冒瀆的な言葉で否定し、その他あまたの言語道断で非道な行為や犯罪を犯す。彼らは人類の敵にそそのかされてこのような行為に及び、その結果としてみずからの魂を危うくし、神の尊厳を損ない、とても多くの人々にたいして恥ずべき見本となっている。私はまた、次のことも伝え聞いた。すなわち、ともに説教者兄弟会(2)に所属し神学教授であるわが愛する息子、ハインリヒ・クレーマーとヤーコプ・シュプレンガーは、教皇書簡によって異端の堕落を取り締まる異端審問官に任命され、クレーマーは高地ドイツの地方、都市部、領地、地区、そして教区で、またシュプレンガーはライン川流沿いの地域において、依然としてその任に当たっている。それにもかかわらず、これら地域の若干の聖職者ならびに平信徒[の役人]は、自分の分をわきまえずに多くを知ろうとするとともに(3)、任命状には先述した地方、都市部、領地、地区、そして教区その他の場所、人物、ならびに非道な行為について具体的に明記されていないので、自分たちの地域はそれには該当しないなどとはばかることなく頑強に主張しているという。そして、それを根拠として、先述の両異端審問官が先述の地方、都市部、領地、地区、そして教区で異端審問のような職務にあたることなど許されておらず、また非道な行為や犯罪ゆえに人々を罰したり投獄したり矯正したりするのも認めるべきではないと説いているという。このような理由により、先述の地方、都市部、領地、地区、そして教区では、人々の命が失われ永遠の救いが奪われる危険が明らかにもかかわらず、非道な行為や犯罪が罰せられないままになっている。したがって、私は次のように望む(それとともに、それを達成するよう、わが信仰への熱意に激しく駆りたてられる)。すなわち、当異端審問官の職務の遂行を妨げる恐れのあるいかなる障害も取り除くよう望むとともに、私に与えられた責務として、適切な改善策を講じることにより、異端の堕落やその他の非道な行為による汚れがその害毒を広めて無垢なる人々に危害を及ぼさぬよう望む。そして、そのために、先述した高地ドイツの地方、都市部、領地、地区、そして教区において、当異端審問官がきちんとその職務にあたれるよう意図するものである。したがって、私は教皇の権威において、本書状をつうじて、当異端審問官にたいして、当該地域において異端審問の職務を遂行し、先述の非道な行為や犯罪の罪により、人々をあらゆる観点、あらゆる手段で矯正し投獄し処罰する権限を与える。こうした地方、都市部、領地、地区、教区、人物、そして非道な行為については、すでに先述した教皇書簡において具体的に明記されていたものとする。さらなる予防策として、私は先述の教皇書簡を拡張し、先述の地方、都市部、領地、地区、そして教区および人物や犯罪の指定範囲を拡大して、同じく教皇の権威において、当異端審問官にたいして、先述の地方、都市部、領地、地区、そして教区において、たとえどのような身分の人物、どんなに高位の人物にたいしても、前述の犯罪に関連して有罪と思われる者を、その瑕疵にしたがって、矯正し、投獄し、処罰し、そして罰金に処することができる権限を十全かつ制限なく新たに与えるものである。当異端審問官はともに協力しあって以上の職務にあたってもよい。あるいは一人だけで、コンスタンツ教区の聖職者にして文学修士であるわが愛する息子ヨハンネス・グレンペル(4)を公証人の任にあたる補佐役として任命し、以上の職務にあたってもよい。あるいはまた、その他の公証人を当異端審問官の一人か両人が一時的に代理に任命して職務にあたってもよい。当異端審問官はさらに、先述した地域の各小教区の教会における会衆にたいして、有益に思え行なおうと思ったときにはいつでも、神の言葉を提唱し説く権限を十全かつ制限なしに与えられる。そして、先述の犯罪に関して必要かつ適切なその他ありとあらゆる行為を行なうことができる。
さらに、私はわが尊敬すべき兄弟であるシュトラースブルク司教(5)にたいして、次のような書面による教皇命令を与える。すなわち、同司教は、それが有益であると認められた場合はそのつど、また当異端審問官の両人またはどちらか一人によって合法的に要求された際には、みずから、または自分以外の単独もしくは複数の聖職者をつうじて、先述した内容を公表しなければならない。また、当異端審問官が本件に関して、先述の教皇書簡および本書状に反して攻撃されたり妨げられたりした場合には、たとえ相手がいかなる権威であれ、どのような者であっても、それを許してはならない。さらに、宣告、譴責、それに破門や聖務停止や聖務執行禁止などの処罰、あるいは正当と思えるより恐ろしい処罰によって、いかなる反逆的な攻撃者や妨害者や反対者も抑制しなければならない。たとえそうした者がどのような位階や地位や身分で、どれほど卓越しており、いかに高貴な生まれで、どれほど優れ、いかなる境遇にあり、そしてどのような例外的特権を有していようともそうであり、その者が控訴上告する権利はすべて等閑に付さなければならない。同司教は必要な場合にはいつでも、わが権威によって、本件に関して従うべき合法的訴訟手続きにおいていっそう重い量刑を重ねて課すことができるとともに、必要であれば本目的のために俗権の援助を請うてもよい。以上の内容は、上述の事柄によって妨げられることはない。または、教皇の決定や命令に相反する事柄によっても妨げられない。あるいは、免償状についてじゅうぶんかつ明確かつ逐語的に言及していない教皇書簡によっては、聖務執行禁止や聖務停止や破門を受けることはないという免償状を、教皇庁がまとめてまたは個別に、特定の人物にたいして、たまたま与えていたとしても、同様に妨げられない。あるいはまた、教皇庁のその他の免償状において(それが一般的なものであれ、特殊なものであれ、またいかなる目的で発行されたものであれ)、本書状には言及がされていない、あるいはすべてが盛り込まれていないとして、また教皇の書状の文章においては個々の人物について具体的に言及されるべきであるとして、例の恩恵(6)の遂行を妨げまたは延期することが可能であるとされていても、やはり同様に妨げられない。したがって、何人にたいしても、わが宣言と許可と命令とが含まれた本書状に違反するのを許してはならず、または無分別で厚顔無恥にも本書状に異議を唱えるのを許してはならない。もしそうした所業に及んでいると思える者がいるならば、かかる輩は全能なる神、聖ペテロや聖パウロら使徒たちの怒りを招くであろうとその者に知らしめよ。われらが主の受肉より一四八四年、わが教皇第一の年の十二月五日、ローマのサン・ピエトロ寺院にて発する。
【訳註】
(1)インノケンティウス八世。
(2)ドミニコ修道会の正式名称。
(3)ローマの信徒への手紙 12:1-8を念頭においた言葉。パウロはこの手紙でローマの信徒に尊大にならぬよう戒めている。
(4)ヨーハン・グレンペル・フォン・ラウフェンブルク。彼は神聖ローマ帝国の公証人で、一四八四年十月ラーフェンスブルクでクレーマーの補佐役を務めたとされる。
(5)アルブレヒト・フォン・バイエルン(在位一四七八~一五〇六)。アルブレヒトにこの特命を下した理由は不明である。おそらく、彼は魔女術に関する訴訟を妨げたことがあり、これからも同じことをすると予想されたためだと思われる。なお、シュトラースブルクは中世には神聖ローマ帝国領だったが、現在はフランス領(ストラスブール)。
(6)クレーマーとシュプレンガーにたいする権威の授与をさす。
[出典:田中雅志 編著・訳『魔女の誕生と衰退 ― 原典資料で読む西洋悪魔学の歴史』 三交社 2008年]