逆説的ながら、キリスト教はエロスの美術における大いなる創作源であった。キリスト教はギリシア・ローマ神話とならび、「エロスの図像学」の形成にもっとも貢献したといえよう。
しかし、それが創作の源となりえたのは、いささか倒錯した心理的プロセスに基づく慣習が、公の美術の場において成立したからにほかならない。その慣習とは、本来教会の禁じるような表現であっても、教会の教え自体を根拠にしていれば正当化されうる、というものである。すなわち、宗教上の教訓・道徳の寓意をまとっていれば、性や裸体を描いても構わない、というわけである。
こうして、キリスト教の基づく特定の主題は、ルネサンス以降、しばしばエロスを表現するためのいわば格好の口実として用いられるようになった。
たとえば、旧約聖書からは、「アダムとエヴァ」、「スザンナの沐浴」、「ヨセフとポテパルの妻」、「ロトとその娘たち」、「ダヴィデとバテシバ」、「サムソンとデリラ」、「ホロフェルネスを斬首するユディット」等々の物語が、女性の裸体美や性愛の情景を描く口実として用いられた。
同様に、新約聖書も数々の題材を提供した。たとえば、聖母マリアが幼子イエス・キリストに授乳する姿は、女性の胸を露わに描くために活用された(ジャン・フーケ《ムランの聖母子》、パルミジャニーノ《薔薇の聖母》)。
しかし、新約聖書におけるもっとも際立ったエロティックな肖像の主役は、悔悛したマグダラのマリアに帰されよう。ティツィアーノの描きだす彼女の肖像は、恍惚とした表情で天上を見上げ、ふさふさとした長い髪とそれをかき抱く両腕の隙間から、豊かな二つの乳房をのぞかせている。
こうした聖書に基づく主題以外にも、たとえば聖セバスティアヌスや聖アガタといった聖人の殉教譚、聖テレサら聖女たちの見神譚、あるいは悪魔学によって捏造された魔女信仰のうちに、エロスの美術の格好の題材が見いだされてきたといえよう。
出典:「エロティック・アートでたどる西洋美術史」 (巨匠にもポルノグラフィ<特集>) 田中 雅志 [解説],『芸術新潮』46(6), p.40, 1995-06.