オーストリアの画家、素描画家。
キルヒナーは世紀の境目の1900年にビジュアル文化のメッカであるパリにやってきて、ポストカードとか、『ラシエット・オ・ブール』や『ラ・ヴィー・パリジェンヌ』のような絵入り諷刺雑誌の美人画でめきめきと頭角を現した。彼が描く無邪気で陽気で愛くるしい娘たち、つまり「キルヒナー・ガール」は一世を風靡した。
パリで成功を収めたのち、第一次世界大戦が勃発すると、キルヒナーは戦火を逃れ、人気ミュージック・ホール「ジークフェルド・フォリーズ」の美術担当として、愛妻ニーナとともにニューヨークに移住した。
「キルヒナー・ガール」は、愛妻ニーナがモデルとされる。彼にとってニーナはヴィーナスであり、インスピレーションの源であった。ちょうどイカールにとってのファニーのような存在だったといえよう。
「キルヒナー・ガール」はなにも女優とか高級娼婦のような特別な存在ではない。パリの中流階級のファッショナブルだがごく普通のお嬢さんたちである。ごく身近なパリジェンヌが化粧し、着替えし、水浴びするといった日常生活の一こまを捉えたものである。そんな彼女の魅力は、じつはセクシーさよりも、女神のような優しさや暖かみにあった。
それを物語るあるエピソードがある。第一次大戦のとき、イギリスとフランスの兵士はキルヒナーのポストカードを携えて戦場に赴いたものだった。彼らはそれを性欲の捌け口としてではなく、銃弾よけのお守として携えていったのだった。
1917年ニューヨークで、キルヒナーはまだ40そこそこの若さで急性虫垂炎のために急死する。あまりにもあっけない死だった。そののち、キルヒナーのポストカードの女神たちはアルベルト・バーガスらによるピンナップガールへと引き継がれた。