好事家のあいだで密かに語り継がれてきた説によると、あのフランス・ロココ美術を代表する画家ブーシェもまたポルノを描いたという。よく知られているように、ブーシェは18世紀フランス宮廷文化を艶麗に装飾した当代一の流行画家である。彼はルイ15世の愛妾であるポンパドゥール侯爵夫人の寵愛を受け、ついには王立絵画彫刻アカデミーの総裁、主席宮廷画家にまで登りつめた。

　このようなステータスの芸術家が、はたして春画のたぐいに手を染めたりするものだろうか。しかしながら、稀代の色好みである国王ルイ15世以下、王侯貴族が恋愛遊戯にうつつを抜かしたご時世のこと。それに美の女神ヴィーナスにかこつけて、宮廷貴族の有閑マダムや魅惑的なパリジェンヌのあられもない姿態を描きちらしたブーシェであるから、さもありなんである。ヴァトーもそうであったが、有名画家が色好みな王侯貴族のパトロンの庇護のもと、エロティック・アートに密かに励むというのは、ルネサンス以来の伝統といえる。

　ブーシェの油彩による秘画については、まっとうな美術史ではむろん黙殺されている。しかし、その道の同好の士のあいだではたびたび取り沙汰されてきた。書物で初めてそれについて触れたのは、エロティック・アート研究のパイオニアであるエードゥアルト・フックスである。フックスが『エロティック美術の歴史』(1908)で述べた主張をまとめると、次のとおりである。

　ブーシェはルイ15世の命を受けて、ポンパドゥール侯爵夫人の閨房を飾るエロティック画の連作を描いた。それらは、優しい前奏曲、秘密の二重奏、激しい成就など、刺激的なヴァリエーションを展開していたらしい。連作はフランス革命やナポレオン戦争など、18世紀から19世紀の動乱の時代をくぐり抜けた。ところが、19世紀後半、最後の所有者となったある著名なイギリス人蒐集家がアメリカに売却しようとした際に悲劇は生じる。「卑猥な品」はアメリカ入国のときに税関で差し止められ、イギリスへ返送されるはめになった。ヴィクトリア女王時代の品行方正な英国人は、返送品の再入国を認めなかった。かくして返送品は没収され、イギリスで没収財産に指定されたすべての物品と同じ運命を辿った。つまり焼却されてしまったのである。ただし、焼却前に写真撮影が許されたため、「遺影」だけはかろうじて蒐集家たちの手に渡った。

　このフックス説以外にも、ブーシェの幻の秘画についてはさまざまな話が伝わっている。絵は奥手の皇太子（のちのルイ16世）の性教育のために描かれたとか、それは1871年のチュイルリー宮殿の火災の際に焼失し、今日伝わる複製は当時の所有者であるナポレオン3世の許可なくして焼失前に写真撮影されたものだ、などというという主張である。しかし、いずれの説も真偽のほどは定かでない。

　フックスが言及したブーシェ作とされる幻の秘画は、少なくとも五点は存在したようである。フックスは著書で合計四点の図版を掲載している。ここでは、それ以外のもう一点を紹介しておこう（図1）。

　今日まで真作として確証されていないものの、それら五点がブーシェのスタイルで描かれているのは一目瞭然である。ただし、今日知られるブーシェの官能的な神話画や田園図と明らかに違っているところがある。それは、愛戯に耽るカップルの秘所がはっきりと描き込まれている点だ。つまり、この連作はあくまでもプライベートな鑑賞のために作られたイメージなのである。

出典：田中雅志『封印されたエロス：もう一つの美術コレクション』, 三交社, 2002/12, 50-52頁