太陽王ルイ14世が崩御し、続いて到来したオルレアン公の摂政時代(1715~23)には、自由で陽気なお祭り気分が満ちあふれ、王侯貴族は臆面なく恋愛遊戯に熱をあげた。この浮かれ高揚した時代の雰囲気を艶麗な絵筆で鮮やかにすくい取ったのが、フランス・ロココ絵画の幕開けを告げるヴァトーである。
ヴァトーは貴顕男女が野外で典雅な愛の宴を楽しむ情景を描きだし、「雅宴画」の創始者として知られている。ところが、ヴァトー自身は自分の描くこうした華やかな絵画世界とはおよそ無縁な人間であった。北フランスの片田舎の貧しい庶民の出で、容姿に恵まれず、暗く内向的な性格であった。そのうえ年若くして不治の肺の病に冒され、生涯独身のまま三十代半ばにして夭折する。とはいえ、華やかな世界とは無縁であったからこそ、貴顕男女の優雅な恋愛遊戯を、大都会パリの魅力を、実際にもまして甘美に描きとめることができたのであろう。
そんなヴァトーは雅な宴だけでなく、雅な裸婦たちも生みだした。つまり、《ニンフとサテュロス》(1715~16頃)、《ディアナの水浴》(1715~16頃)、《弓矢を取りあげられたクピド》(1715頃)、《パリスの審判》(1714~21頃)といった神話に基づく裸婦の名品の数々である。これら女神たちの艶やかな肌合いは、紛れもなくリューベンスの豊麗な色彩感覚を受け継いでいる。
ヴァトーは風俗的なヌードも手がけている。《化粧》(1715頃)、《寝室の化粧》(1715)(図1)など、閨房での女性の化粧図がそれである。
これら風俗ヌードのなかには、意外なことに、ご婦人の浣腸図も見受けられる(《治療》、図2)。雅宴の画家であり、どう見ても堅物であるヴァトーがこの種の絵をものしたとは驚きかもしれない。それはどうやら彼のパトロンの一人であるケイリュス伯爵の感化によるものらしい。そのケイリュス伯は、若い頃に8歳年上のヴァトーとともに生身の女性モデルを使ってデッサンや油絵を描いたと回想している。いつもは陰気で気むずかしく内気で皮肉屋のヴァトーも、この内密なひとときにはすっかり愛想良くご機嫌であったという。
ケイリュス伯の回想によれば、彼らはこの密かな写生の集いで、デッサンだけでなく油彩画も描いたという。そして、《治療》に基づくと思われる絵画が実際に残っている(図3)。ただし、この小品に描かれているのはベッドに横たわる裸婦のみで、浣腸器を手にした侍女は見あたらない。ところが画面の右端だけ後世にカットされた形跡があることから、もともとは浣腸器を持つ侍女が描かれていた可能性もある。
浣腸といえば、当時の王侯貴族のあいだでファッショナブルな健康法や美容法としてもてはやされていた。ルイ14世は、「脳を守る最良の方法は下腹をできるかぎり頻繁に空にすること」であると信じ、一説によれば生涯で二千回もの浣腸を行ったという。上流夫人のなかには、ルイ15世の母親であるブルゴーニュ大公夫人のように、人々の面前ではばかりなく浣腸をするご婦人もいたという。
流行の浣腸を画題に取りあげたのは、なにもヴァトーの創案によるものではない。この主題はすでに17世紀オランダやフランスの風俗画に見られる(図4)。そのなかには、じつにあからさまなご婦人の浣腸図も見受けられる(図5)。
ヴァトーは閨房での婦人の化粧や浣腸のようなエロティック画をかなり手がけたようである。ところが、最晩年になって若気の過ちを後悔し、「不名誉」な作品は破棄するよう友人に依頼した。そのため、雅宴の画家の高雅なイメージを損ないかねないような作品は今日ほとんど残っていない。しかし生き延びた《治療》周辺のエロティック画の存在は、ヴァトーのもう一つの相貌を伝えているだろう。ヴァトーが描きだしたあの雅やかな宴の数々には、今日思われているよりもはるかに生々しいエロスの息吹が込められているにちがいないのだ。
出典:田中雅志『封印されたエロス:もう一つの美術コレクション』, 三交社, 2002/12, 46-50頁