エロスの歴史、それは受難の歴史にほかならない。受難の原因は戦争や災害、そしてなんといっても風紀粛正である。
西洋美術史を顧みると、エロスの粛正劇はじつに頻繁に繰り返されてきた。なかでも有名なのが、ミケランジェロの《レダと白鳥》の顛末(てんまつ)である。この名画はのちにフランス王ルイ13世の廷臣によって卑猥だという理由で焼却されてしまった。また、イタリア・マニエリスムの画家ジュリオ・ロマーノとライモンディによる性交体位の連作版画の場合、教皇庁によって原版もろとも徹底的に破棄された。
フランス・ロココの画家ブーシェは、パトロンのポンパドゥール侯爵夫人の閨房を飾るために枕絵の連作を描いたと伝えられるが、それらはのちにイギリス税関に差し押さえられて焼却の運命を辿った。
魔女狩りならぬエロス狩りの実践者は、なにも時の権力者や当局者ばかりであるとは限らない。作者の身内や良き理解者のはずの者が焚刑の宣告を下す場合もある。
不気味な夢魔の絵で知られるフュースリがプライベートでものした好色画は、画家の死後にフュースリ夫人によってその多くが焼かれてしまった。ロマン主義絵画の巨匠ジェリコーが習作でしたためたヌードの多くも死後に失われてしまったが、それは画家の親族が教区司祭の善導に従って焼いてしまったからである。
ウィーンの宮廷画家フェンディがものしたエロティック水彩画の数々の場合、死期を悟ったある蒐集家によって手紙の束とともに炎に投じられたという。風景画の巨匠ターナーがプライベートにしたためた性愛図の多くは、ターナーの熱心な信奉者である批評家ラスキンによって火に投ぜられた。
画家みずからが英断を下す場合もある。雅宴画で知られるヴァトーは最晩年になって、自分の「不名誉」な作品はすべて廃棄するよう友人に頼んでいる。
焼かれて永遠に葬り去られないまでも、深手を負った絵もある。たとえば、イタリア・ルネサンスの画家コレッジオの《レダ》である。この裸婦の名画は18世紀にオルレアン公フィリップの息子によって、レダの顔の部分が無惨にも切り裂かれてしまった。
時代のモラルに抵触した好色画をものしたために、当局から弾劾されたり発禁処分の憂き目にあった芸術家となると数知れない。ロココの春画の大家ボードゥアンはパリ大司教からサロンの出品作を撤去するよう命じられたし、フランス革命期の風俗画家ボワリーは公安委員会から猥褻画家として弾劾された。19世紀末のエロティック画家バイロスは、地下出版した好色画集がもとで告発され、ドイツから国外退去処分を下されている。
エロティックな絵の大半はしかし、躍起になって弾圧したりしなくとも、その描き手とともにおのずと消え去ってしまうものだ。無名の絵師がしたためた好色画。風俗雑誌やポストカードを彩った流行の艶笑画や美人画。それらのほとんどは、ほんの束の間の快楽のために消費され、時の流れとともに人々の記憶からこぼれ落ちていった。
エロスの歴史は隠蔽の歴史でもある。
15世紀フランドル画派のファン・エイク兄弟が描いた《アダム》と《エヴァ》は、ヴィクトリア朝時代には、模写に置きかえられたうえに黒衣で覆われていた。ドイツ19世紀末の芸術家マックス・クリンガーが密かに描いた性交図の数々は、彼がコレクションにしていたヌード写真とともに長らく個人のもとで秘蔵されてきた。近代映画の父エイゼンシュテインがものしたエロティック戯画も、その性質ゆえに旧ソ連邦時代は門外不出であった。
写実主義絵画の巨匠クールベが描いた女性の股ぐらのクローズアップは、今日ではオルセー美術館に鎮座しているものの、それまでは1世紀半にわたり何人もの美術愛好家の密室を行き来してきた。画商の倉庫や好事家の書斎の奥深くには、いまだにあまたの艶画がひっそりと眠っていることだろう。
出典:田中雅志『封印されたエロス:もう一つの美術コレクション』, 三交社, 2002/12, 2-4頁