アントワーヌ・ボレル(1743-1810)
■佛蘭西恋愛狂時代■ ―田中雅志
フランスはロココの時代、好色文学の黄金期を迎える。ニコラ・ショリエの『アロイシア・シガエアの対話』(一六六〇頃)がリヨンより密やかに出る十七世紀半ば頃より早や隆盛の兆しを見せ、革命が近づくにつれ出版数は増大、革命後には更に増えたという。この艶本の黄金時代にはあまたの匿名の作家たちに加え、ミラボー伯、アンドレア・ド・ネルシア、クレビヨン・フィス、レチフ・ド・ラ・ブルトンヌ、そしてサド侯爵といった錚々たる“リベルタン”作家が輩出した。これらの面々は概ね当時流行の自由思想や唯物論を援用、既存の旧弊な社会秩序とりわけ性のモラルを無みし、性的快楽の追求を第一義とした。それがため宮廷人や聖職者の偽善的な悪徳ぶりにしばしば攻撃の筆を向け、反権力、反教権を掲げた艶書をものしている。しかし数のうえからいえば、彼ら有名無名のリベルタンたちの作品は、啓蒙思想や道徳的教訓の衣を被せてはいるものの、実のところもっぱら性的刺激を喚起せんとするポルノグラフィーの類のほうが断然多かった。
ところでこれらの出版に際しては、種々なる配慮が払われた。というのも、パリにはバスチーユという恐ろしい監獄があったからだ。パウル・エングリッシュによれば、すでにルイ十三世からして書物の出版は国家の安寧を乱し、良風美俗の紊乱をもたらすものと確信していたという。そして一六六〇年から一七五六年の間に、八六九名にのぼる著者、書籍商、出版者が反宗教、反国家、反良俗の書を流布した科でバスチーユ送りとなり、たとえば一六九四年にはルイ十四世の寵姫マントノン夫人を誹謗した科で、二人の出版者が絞首刑、その関係者は厳罰に処せられたという。
こうしたお上の取り締まりの手を逃れるべく地下出版が盛行し、艶書のタイトル・ページの著者、出版者、出版地、出版年の刊記には様々な工夫が凝らされた。最も安全なのは、それらの刊記を伏せてしまうことである。しかし、それではいかにも無趣味である。なるべく奇抜で味のある表記で、読み手の歓心を買わねばならぬ。そこで、架空の魅惑的な地名を出版地にしたりする。たとえば性的な言葉にポリスという語尾を付ける。「ボルデロポリス」、「コキュポリス」、「コイトポリス」、「エロトポリス」、「フリヴォロポリス」、「フートロポリス」、「パヤルディゾポリス」、「サドポリス」、「スカトロポリス」、「ヰタポリス」の類である。
または、その内容を暗示する「パフォス」、「レスボス」、「シテール」といった地名を付す。ときにそれらに言葉を添えて、「パフォス島、悦楽の年に」、「シテール島、快楽と自由の年に」、「シテール島にて、神殿の守護者刊」、「新シテール島、エデンの園にて」といった具合にする。さらに、トルコのスルタンの艶笑物ならばコンスタンチノープル刊、僧侶の堕落を揶揄する反宗教の書ならばローマ刊だ。
時には出版者も出版地も挙げず、ただ次の様に記していたりする。すなわち、「親友の出資にて出版」、「若い未亡人の出資にて出版」、「著者の自費出版」、「新しもの屋の商人刊」。
あるいは次のような奇天烈なる刊記もある。「C(コン)の散歩道」、「情交する人たちの広場近くにて」、「パリ、パレ・ロワイヤルの書店」、「ケルン、大胆な雄鶏のロベール・トゥルクの店」、「パリにて、陰気でない書店刊」、「パリにて、何でも見えるある場所より」、「その倶楽部直属の印刷所より」、「パルナッソス山にて、アポロンの嫡子たち刊」、「コスモポリタン協会」等々。
発行者の敵を出版人にしてしまうやり口も使われた。すなわち、「ローマ、禁書目録選定委員会の費用にて」とか、「マルタ島、ローマ法王の費用にて」などだ。前者は反僧侶の艶笑作家アンリ・ジョゼフ・ド・デュロラン作『現代のアレティーノ』(一七七二)の、後者もそのデュロランの代表作『コンペール・マテュー』(一七六六)の刊記である。ミラボー伯『エロティカ・ビブリオン』(一七八三)で、「ローマ、ヴァチカンの印刷所より」と銘打っている。
その他、「ソドムとシテール島にて、本書は口ではこれを非難する人々のポケットにとりわけ収まっている」、秘密出版にして、いかなる場所にも売られておらず」、「どこにも見当たらないが、実はどの書店の奥の間にもあり、悦びの年発行」、「砂糖菓子でできたキャラメル山にて」、「ヴィルヌーブにて、ヒュメン印刷所刊」、「淫欲の市にて、貴婦人印刷所エルキュル・タプフォル刊」、「プリアポスの市、ガラント印刷所」等々。
架空のものか実在のものかいずれと知れぬ、好色文学史上名高い、ある人物の名を冠した出版社がある。「ケルンのピエール・、マルトー」がそれである。この出版者の名のもとに、一六六〇年以来今世紀に至るまで、実に夥しい数の艶本が市場に密やかに流通し続けている。けだし、多くの無名出版社がこの名に便乗したものと思われる。
艶本全盛のロココ時代にあって、最も艶名を馳せ確かに実在した出版者といえば、メルシエ・ド・コンピエーニュ(一七六三~一八〇〇)とユベール・カザン(一七二四~九五)であろう。前者は個人秘書、海軍官吏から書籍商に転身した人物で、多くの好色物、スカトロ物を世に送り出し、自身もこの手の著作に手を染めている。後者カザンは出版業者であるとともに編集人でもあった。一七二四年ランスに生まれ、書籍商の道に入る。やがて実入りの良い好色本の出版に手を伸ばし、それがために二度にわたって書籍商組合から除名されている。しかし時の有力者との人脈のおかげで、カザンは容易にこの実入りの良い商売を続けることができた。そして愛書家と同様の情熱を込め、豪華で見事な造本のカザン叢書を後世に残した。今日愛書家や好事家の間では、このカザン版はきわめて珍重されている。一七七七年から約一〇年間が彼の全盛期であった。しかし革命のために破産し、最後は行きつけのカフェを出る際に砲弾を浴びて死んでしまった。ところでカザンは自身の手になる数々の好色本を艶麗に彩るべく、多くの挿絵画家たちをお抱えにしていた。その中でも傑出していたのがアントワーヌ・ボレル(一七四三~一八一〇)であった。ボレルは銅版画家のフランソワ・ロラン・エリュアン(一七四五~一八一〇)と名コンビを組み、カザンの豪華版の艶本に次々と傑作の挿絵を提供、十八世紀フランス、リベルタン文学全盛期における代表的な艶本挿絵画家となった。
アントワーヌ・ボレルの生涯の詳細については、今日ほとんど伝わっていない。知られている数少ない伝記的事実をならべれば、次のようになろう。ボレルは一七四三年パリに生まれる。父親は肖像画家であった。やがて自身も画家となり、時事的な寓意画、例えばルイ一五世の皇太子の誕生や財政家ネッケルの手腕を讃える作品で、同王の治世末期にはその名を知られるようになる。その他、ニコラ・プッサン作の『岩を打つモーゼ』に想を得た対策も描いている。一七七九年サロンへ出品、ギリシャ・ローマ神話に材を取った油彩画の大作やフランスのアメリカ遠征軍の武勲を讃える作品を創作したという。しかしおそらくこの前後の時期より、ボレルは艶本の地下出版という“裏の世界”に足を踏み入れるようになる。その経緯については全く不詳である。こうしてユベール・カザンのもとで、彫師のエリュアンと組になり、当時の名高い好色本に次々と銅版による赤裸な挿絵をものしたのだった。その主な挿絵本を挙げれば、ジョン・クレランド作『ファニー・ヒル』の仏訳版『フィユ・ド・ジョワ(売春婦)』(一七七六)、セナ・ド・メイラン作『ラ・フートロ=マニー』(一七八〇)、アンドレア・ド・ネルシア作『フェリシア』(一七八二)、ニコラ・ショリエ作『ル・メウルシウス・フランソワ』(一七八二)、シャルル・ボルド作『パラフィラ』(一七八二)、『女哲学者テレーズ』(一七八五)、フェリックス・ノガレ作『アレタン・フランソワ』(一七八七)、ド・ラトゥーシュ作『サテュルナンの回想』(一七八七)等である。これらの艶本の出版者はすべてカザン、そしてその挿絵はすべて下絵をボレルが描きエリュアンが見事な銅版画に仕上げている。こうしてボレルは革命前の数十年間に艶本地下出版の世界でもっぱら絵筆を振い、ナポレオン一世による第一帝政下の一八一〇年にこの世を去った。
次に、以上の主なボレル挿絵本の内容を簡単に紹介しておこう。『フィユ・ド・ジョワ』は前述のとおりクレランドの『ファニー・ヒル』の仏訳版である。本書の梗概については言うまでもあるまい。ところでそのタイトルページを見ると、「ロンドン、ストランド街のG・フェントン刊」となっている。しかしこれは言わずもがな当局の目をごまかすための偽りの刊記である。しかし全く架空な者ではない。一七四九年本国イギリスで出版された『ファニー・ヒル』初版のタイトルページのそれをそっくり頂戴したものだ。挿絵は一五葉入。
『ラ・フートロ=マニー』は、十八世紀フランスにおいて最も卑猥な艶詩の作者として知られたガブリエル・セナ・ド・メイラン(一七三六~一八〇三)の代表作といえる艶詩集である。初版は一七七五年で、全部で六編の長篇詩より成っている。ボレルの挿絵本は、そのタイトル・ページに「ロンドン、ある美術愛好家たちの費用にて刊」とあり、挿絵七葉入。
『フェリシア』はアンドレア・ド・ネルシア(一七三九~一八〇〇)の処女作にして最も知られたエロティカである(初版は一七七五年)。本書は実在の人物をモデルにしており、ヒロインのフェリシアは作者の愛人であったという。物語は奔放な女フェリシアの恋愛遍歴を綴ったものだ。海賊船で生まれたヒロインはやがてイタリア人シルヴィーノの養女となり、立派な教育を授けられる。早熟な彼女は一四歳で舞踏の先生に首ったけとなり、その後騎士のエルグモンやある僧侶とも恋仲となる。恋の刺激を求めてやって来たパリでは、強盗に襲われたところを救ってくれたイギリス人青年モンローズと激しい恋に落ちる。しかしさらなる愛の遍歴への情やまず、富裕なイギリス人貴族シドニー卿とも情を交わす。卿は窃視症者で、自分の城に若い男女や美少女を呼び集めては、彼らの行為を覗き見て、無上の快楽に浸るのだった。その後も挿話に次ぐ挿話が続く……ネルシアは本書の続編『モンローズ』を一七九一年に発表している。その他の彼の代表的なエロティカとして、実在の艶笑倶楽部を舞台にした『アフロディット会』(一七九三)、死後発表された『肉体の悪魔』(一八〇三)が知られている。なお、『フェリシア』のボレル挿絵本は、刊記が『ロンドン刊』となっており、挿絵二四葉入。
一六六〇年頃リヨンで、一冊のラテン語による艶本が出版された。同書はピエトロ・アレティーノの『ラジオナメンティ』(一五三三―三六)とともに、後世に隆盛を窮める好色文学の濫觴となった名作だ。すなわち、『愛と性の秘儀についての、トレド婦人アロイシア・シガエアの艶笑対話文』がそれである。同書は十六世紀スペインに実在した徳行高き才女ルイサ・シヘアが自国語で書き、やはり実在の有名な学者であったオランダ人ヨアンネス・メウルシウスがそれをラテン語に翻訳したものとうたっていた。しかし実際は周知のとおり、フランス人法律家ニコラ・ショリエ(一六二二―九二)の作である。七つの対話編より成り、性愛遊戯に通暁した既婚婦人トゥッリアが、結婚初夜を迎えんとする姪のおぼこ娘オクタヴィアに性の秘事の心得を実技を混じえて伝授するといった趣向である。同書のフランス語版は『婦人の学校』(一六八〇)なるタイトルで出版され、その後も様々な書名のもと出版を重ねた。ボレルの挿絵本『ル・メウルシウス・フランソワ』もその一つであり、『シテール島にて』刊、挿絵一三葉入りである。
『パラフィラ』はフランスの作家、哲学者のシャルル・ボルト(一七三一―八一)作の全五編からなるファロス讃美の艶笑詩集である(初版は一七七五年)。しかしこの艶笑詩は、アントニオ・ヴィッナーレ著『イル・リブロ・デル・ペルケ』所収の「天使ガブリエルの物語」を模倣したものだ。詩の内容は、あらゆる婦人を魅了する不可思議な逸物の物語である。ある隠者が畑を耕していると天の声がして、やがてそのお告げ通りに見事な張型を授けられる。その後それは尼僧院のドンナ・カッポーニのもとに、さらにルクレッツィア・ボルジアの手に渡る。その際法王アレッサンドロ六世の放蕩ぶりが描かれ、最後はルクレッツィアと法王との卑猥な会話をもって終わる。『パラフィラ』は刊行される数年前よりその道の“識者”たちの間で評判となっており、、ちなみにヴォルテールは一七七三年四月七日付のボルト宛て書簡で、「この種の作品のうちで最高の書の一つ」であると同書を称賛している。ボレル挿絵本は「一七八二年、ロンドンにて」刊となっており、挿絵六葉入。
『女哲学者テレーズ』は僧侶批判、リベルタン哲学が大いに盛り込まれた、十八世紀フランス艶本中もっとも有名な一書である。作者は外交官で、プロイセンの啓蒙専制君主フリードリヒ大王と親交のあったダルジャン侯爵とされている。同書は実際に起こり、フランスばかりか全ヨーロッパ中の衆目を集めた『ジロー司祭とカディエール嬢の醜聞事件』に基づいている。事件の顛末は以下のとおりである。ある富裕な商人の娘カディエールは、懺悔中に彼女の聴罪僧であるジロー司祭によって誘惑、強姦され性的虐待を受けたとして、司祭を告発した。何度か公判を重ねた末、多くの証拠が犯行の存在を裏付けていたものの、ジロー司祭に無罪判決が下された。一方カディエール嬢は司祭を誹謗した科で有罪とされ、裁判費用の負担を命じられた。ダルジャン侯爵はこの事件に材を取り、『女哲学者テレーズ』でヒロインのテレーズに、唯物論と快楽主義を唱道する彼女の聴罪僧との性的及び精神的関係を語らせ、僧侶とキリスト教道徳に対する痛烈な批判を行っている。ボレルの挿絵本は「ロンドンにて、一七八五年」刊、挿絵二五葉入。
『アレタン・フランソワ』は、艶笑詩人フランソワ・フェリックス・ノガレ(一七四〇―一八三一)作の代表的な艶詩集である。題名から察せられるがごとく、その内容はジュリオー・ロマーノとマルカントニオ・ライモンディによる艶画に促されアレティーノが創作した好色ソネットの翻案である。ボレル挿絵本が初版で、挿絵一八葉入。
『サテュルナンの回想』は、ジャン・シャルル・ジェルヴェーズ・ド・ラトゥーシュ(一七一五―八二)の傑作エロティカである。初版は『B師の物語、修道院の門番』(一七四二頃)なるタイトルで出版されている。本書は僧侶とりわけ修道院の堕落を痛烈に罵り、ために聖職者の憤激を買った。しかしその筆致はなかなか芸術出来で、恋愛教科書としても当代随一のものであった。ポンパドゥール夫人は本書の大胆な哲学、非凡な構想、格調高い文体そして雅なる艶情ゆえに大いに気に入り、ある子爵に宛てた手紙で早くお買いないさいと勧めている。物語はサテュルナンという庶民出の男が自分の人生の浮き沈みを、数知れぬ情事と修道院の道徳的退廃に言及しつつ語るといったあらすじである。この庶民出のヒーローの登場は、本書以前の艶本における主要な登場人物がまったくといってよいほど貴族であったことを考えれば、注目すべきことである。また物語の結末も従来の艶本にない、注目すべき幕切れになっている。サテュルナンは花柳病に犯され、去勢を余儀なくされるのだ。こうして主人公の性的能力の喪失という悲劇的事態に至り、本書は終わりを迎える。以降、主に新興のブルジョワジーたちのために書かれるようになるポルノにおいては、放蕩三昧に耽った主人公が結末には改心してまっとうな暮らしに戻るといった筋がしばしば見受けられるようになるが、本書以前の主な読者である貴族のリベルタンたちに対するのとは異なり、このような道徳のオブラートが必要となったのだ。ボレルの挿絵本は二四葉入。
ところで、同僚エリュアンの生涯もまた多くは伝わっていない。一七四五年アブビルに生まれ、一説によると娼婦相手の髪結い屋を始め、その片手間に艶笑本を斡旋していたという。するとこの斡旋業が大いに当たり、みずからも挿絵の筆をとってみようという気になり、ボレルと組んだというが、これはまったくの俗説である。正しくは以下の通りである。彼は叔父に当たる版画家ジャック・ボヴァレ(一七三一―九七)のもとでグラヴュールの基礎を学ぶ。ボヴァレは今日ではほとんど忘れ去られてしまったが、ルイ十六世の時代にはその風俗画で大いにもてはやされた画家であった。さて、その後両親の導きで銅版やエッチングの技法を学び、二十歳前後の頃にパリへやって来る。そしてグルーズ、ブーシェ、ルカ・ジョルダーノらの作品の版画を手がける。しかしボレルとカザンとの出会いで、まっとうな画家の道から外れてしまった。しかしこの二人との出会い以前にも、エリュアンは花柳界や劇場の舞台裏の世界に精通していたというから、艶画の制作は彼の天職であったのかもしれぬ。晩年は故郷アブビルに戻り、一八一〇年奇しくもボレルと同年にこの世を去った。
ボレルの挿絵には、一見して彼の作であると分かる独自性が窺える(この独自性はある程度までエリュアンの才と技量に負っているのは確かだ)。まず同時代の艶本の挿絵と比べ、裸体描写が密である。とりわけ肉付きをあらわにする裸体の陰影の描写がリアルにして密である。そのため人物の筋肉の動きが明瞭に見てとれ、痴態を演じる男女はいっそう活気を帯び、臨場感に満ちてくる。よってボレルの挿絵は裸のマネキン人形のように表情の変化、肉体の動きに乏しい同時代の挿絵に比し、人物の個性的表現にいまだ欠けるものの、愛戯に没頭する男女の情熱的な行為の一瞬間の動きを捉えるという点においで数段優っている。同様に背景描写も、丁寧に綿密に描き込んでいる。裸体そのものの魅力の限界をよくわきまえていたボレルは、魅惑的な背景のバリエーションを重視していたようだ。彼の裸体は閨房にしろ戸外にしろ、それを輝かせる周囲のきめ細やかな状況を獲得したことで、艶麗なる芳香を十全に漂わすのだ。
ところでボレルの艶画と、当時大いにもてはやされたいわゆる「艶情版画」(エスタンプ・ギャラント)との相違を明確にしておこう。前者は地下出版艶本の挿絵の系譜に属しており、後者とはあくまでも一線を画すべきものだからだ。さて、ヴァトー、ブーシェ、ボードゥアン、フラゴナールらの艶雅な絵画を版画にしたためたエスタンプ・ギャラントにおいては、性的事象は常に象徴・隠喩をもって語られる。赤裸な語りは避けられ、最後の一線のうわべの礼節は常に保たれる。例えば割れた鏡や壊れた水差しで貞潔の喪失を、背景のカーテンの襞の形状で女性自身を、愛玩の犬や猫で飼い主の貴婦人の秘められた快楽を、また下女により便秘に悩む夫人の尻に向けられた浣腸器で男性自身をそれぞれ暗示するといった具合だ。これらシンボリックか語り口は貴族的な洗練された趣味の反映であるとともに、貴族の正常で健全な性モラルの反映でもある。そしてさらにその性モラルの限界をも示していよう。艶情版画において男色、獣姦といった倒錯的主題が皆無なのもそれを裏付ける(わずかに女性の自己発情の図がみられる程度だ)。
それに比し、地下出版艶本画家を代表する挿絵師ボレルの艶画では、かくの如き限界、象徴・隠喩の類はいっさい取り除かれる。生々しき性行為が、性器が白日のもとに晒されるのだ。こうして嬉々として臆面もなく性戯に埋没する男女の姿は、、リベルタンの哲学を鼓吹するテクストを飾るに実に相応しい。いや、ことによると、ボレルの手になるリベルタンたちは、テクストの思想性なぞ遥かに超越し、より無道徳により厚顔無恥に快楽がための性、娯楽としての性の追求にその身を捧げてるやも知れぬのだ。
[出典:「アントワーヌ・ボレル(1743-1810):仏蘭西恋愛狂時代」(『ユリイカ』24(13), pp.57-65, 1992-12)]