ジュリオ・ロマーノ(1498?-1546)
■ 幻の好色版画〈イ・モーディ〉をめぐって■ ―田中雅志
西洋のエロティック美術史上最も有名な作品の一つで、何百年にもわたってあまたの美術史家、この道の好事家たちに取り沙汰されてきたにもかかわらず、その完全な姿の存在がいまだ知られぬ一連の好色版画がある。現在それは一部のみしか伝わらず、これらだけでは作品の全貌を知るべくもない。今日にいたるまで一八世紀フランスの艶本挿絵師アントワーヌ・ボレルとフランソワ・ロラン・エリュアンらを始めとする多くの好色画家たちが、伝え聞く謎の名画に促され、種々なる模作をものしたけれども、いずれも忠実なオリジナルの複製とはいい難い。この謎に包まれた幻の好色版画こそ、ジュリオ・ロマーノ(1498?-1546)の素描をもとにマルカントニオ・ライモンディ(1480?-1534?)が銅版にしたためた十六葉(あるいは二十葉)の性交位画である。本論では同版画を、イタリア語で体位を意味する語〈イ・モーディ〉と以下呼び慣わすことにする。物議をかもした〈イ・モーディ〉に、ピエトロ・アレティーノ(1492-1556)が十六の好色詩『ソネッティ・ルッスリオーシ・ディ・ピエトロ・アレティーノ』を捧げ、さらなる物議をかもしたのは周知の如くである。
〈イ・モーディ〉の元絵の作者ジュリオ・ロマーノは、あまりに有名なイタリア・ルネッサンス期の画家だ。ローマに生まれ、建築家でもあり、マニエリスム創始者の一人とされている。ラファエロの高弟であった彼は、ヴァチカン宮殿内の「火災の間」(サーラ・デル・インチェンディオ)を師とともに手がけている。一五二〇年ラファエロが没したのちは、〈キリストの変容〉、ヴァチカン宮殿内の〈コンスタンティヌスの間〉(サーラ・ディ・コンスタンティーノ)、ヴィラ・マダマのフレスコ画など、師の多くの未刊の作を完成させている。彼独自の絵画としては、ローマのサンタ・マリア・デラニマ聖堂の〈聖母〉、ジェノヴァのサント・ステーファノ聖堂の〈聖ステパノの石打ち〉が知られている。
一五二七年アレティーノの記したある書簡によると、教皇クレメンス七世が支払期限を破ったために、怒ったジュリオはヴァチカン宮殿内の壁面に淫乱な男女が繰り広げる一六の性交位の図を描いたと述べている。この壁面は現在〈コンスタンティヌスの間〉となっており、もしアレティーノの記述が正しければ、その後ジュリオはこれらをコンスタンティヌス帝を主題とするフレスコ画で被ってしまったと思われる。ところがこの性交位図を目にしたマルカントニオは、それらを銅版画にしようと決意し、一五二三年ローマで〈イ・モーディ〉を出版したのだった。この出版は当然のごとく一大スキャンダルをまき起こし、枢機卿ギベルティの命によりマルカントニオは投獄され、銅版画はすべて原版もろとも破棄された。ためにジュリオもローマを追われる身となり、出版の翌年マントヴァに逃れた。
同地ではフェデリゴ・ゴンザーガの依頼でパラッツォ・デル・テを建設する。同宮殿はブラマンテにより確立された古典主義様式の規範を意識的に弄ぶ、見る者を驚愕させる〈落下するトリグリフ〉を始めとするさまざまなる趣向が凝らされており、マニエリスム建築の最初期の例に挙げられている。ジュリオは同宮殿の〈巨人の間〉(サーラ・ディ・ジガンティ)に、オリュンポスの神々に打ちひしがれる巨人族を描いた有名なフレスコ画を残している。また好色画の筆もとり、同宮殿の「プシケの間」(サーラ・ディ・プシケ)に、海蛇の姿でオリンピアの前に現われ求愛するユピテル(図3)と、牡牛と交わらんがため、ダイダロスに作らせた牡牛の模型に入らんとするパシファエを描いた、エロティック美術史上名高い二つのフレスコ画を残している。その他彼の手に帰せられているエロティック画としては、怒張した男の手から逃れようともがく裸婦の版画(現在、大英博物館特別室に所蔵)などが知られている。
マルカントニオ・ライモンディは一五〇六年頃ヴェネチアにやって来て、デューラーの版画に影響を受ける。その後ローマに赴き、ラファエロら巨匠の作品より数多くの銅版画を制作、ルネサンス的主題をヨーロッパ各国に広めた銅版画家として今日認められている。lジュリオのデッサンをもとに出版した例の〈イ・モーディ〉がもとで投獄されるが、じきに再び自由の身となる。アレティーノはある書簡で、マルカントニオの釈放は自分の誓願のおかげであると述べているが、この主張は偽りある。神聖ローマ帝国のカール五世によるローマ略奪(一五二七)ののちはすっかり落ちぶれ、晩年はボローニャに移り、極貧のうちに生涯を終えたらしい。マルカントニオはエロティックな主題をたいそう好み、〈イ・モーディ〉以外にもこの種の銅版画を幾つも残している。
一五二〇年代前半ローマに滞在していたピエトロ・アレティーノは、ジュリオ=マルカントニオによる好色版画におおいに感銘を受け、「この版画を目にしたとき、ジュリオ・ロマーノにこれを描かしめたと同じインスピレーションにつき動かされた」と語っている。また、「最も喜ばしいものを見るのを禁じるような悪しき判決、忌まわしい良俗など願い下げだ。女の上にのった男の図を眺めるのに何の害があるというのか?獣のほうがよっぽど自由ではないか?」と述べ、マルカントニオを投獄せしめた世の偽善に抗するといったジェスチャーで、一六葉(あるいは二〇葉)の版画のおのおのを註解するソネットを作ってやろうと思い立った。こうして一五二七年頃、一六編の好色ソネットを挿画入りで出版したのだった。ところでこのソネットの挿画はいかなるものであったのだろうか。というのも、同書の初版本は今日一冊として伝わっていないからだ。挿画は、枢機卿ギベルティの破壊の手を逃れたマルカントニオの原版があったとして、それを入手し制作したものと考えられなくもない。しかし、おそらくオリジナルの銅版画に倣った一連の版画を何者かに新たに依頼したものであろうと思われる。
いずれにしても同書の出版は多いなる物議をかもし、筆者アレティーノはローマを去るのを余儀なくされた。ジョルジョ・ヴァザーリは『芸術家列伝』(一五五〇)で、同書出版の件を誤りを含みながらも次のように伝えている。
「ジュリオ・ロマーノは次に、マルカントニオに依頼して二〇葉の人物版画を版刻させた。それらは実に不快きわまる代物だ。さらに悪いことには、ピエトロ・アレティーノ氏までがそれらの各々にたいし卑猥この上ないソネットを書いた。どちらもあまりにひどいので、目に見えるジュリオのデザイン画の不快な光景と耳に聞こえるアレティーノ氏のネットの恥知らずな言葉と、いずれがより嫌悪の情を催させるや知れぬ」。
アレティーノソネットに対しては、その後あまたの複製本が流布した。他言語による翻訳本も次々と現われた。それらにはしばしば偽作の詩が付け加えられた。新たなる挿画も付された。と同時に、当局の猥書取締りのやり玉に挙げられ、多くが破棄される憂き目に遭った。ギョーム・アポリネールはその『アレティーノ書目詩論』(一九〇九)において、一五五六年刊のヴェネチア本、一七五七年のパリ本、一七九二年のローマ本、一八六四年のライデン本、一八六五年のブリュッセル本、一八八二年のパリ本、一九〇四年のベルリン本を挙げている。そして以上の初版には、合わせて少なくとも三十種のソネットが存すると指摘している。
今日に至るまでジュリオ=マルカントニオによる幻の好色版画〈イ・モーディ〉の全貌を究明せんと、多くの努力が払われてきた。しかし一五二三年ローマで出版されたそれは、よほど弾圧が徹底的に行われたものとみえ、残念ながら現在一冊たりとも伝わっていない。二七年のローマ略奪もその消失の一因に預かっているものと思われる。さらに、〈イ・モーディ〉と同一もしくはきわめて類似した挿画を付していたと想定される。一五二七年頃出版されたアレティーノのソネット初版本も同様に一冊たりとも伝わっていない。それゆえそもそもかかる好色版画など出版されなかったのではないかという疑いもなされているほどだ。とはいえ同時代のヴァザーリの記述があるし、次に述べるいずれも不完全ではあるものの、その存在を裏付ける幾つかの手がかりも我々の手に残されている。そこで以下これらを順次検討しつつ、多くの複製画と架空の伝説の霧に霞んでしまった〈イ・モーディ〉の真の姿に迫ってみたい。
現在我々が有している手がかりとしては大英博物館所蔵の九つの銅版画断片(図Ⅰ,2)、大英博物館とウィーンのアルベルティーナ素描版画館所蔵の一葉の完全な銅版画(両者は同一のものだ)(図5)、ニューヨークのウォルター・トスカニーニ氏所蔵の、刊行が初版に近いソネット本、それに大英博物館所蔵の二〇葉の水彩画と、ほぼそれと同一のパリの国立図書館所蔵なる水彩画(図6~8)である。
まず大英博物館所蔵の九つの銅版画断片であるが、これらは〈イ・モーディ〉オリジナルあるいはその忠実な複製の稀少なる残片であろうとほぼ確実視されている。いずれも切手サイズであり、うち二つがやや大きく円形状をなしている。頭部もしくは上半身のみの姿に切りとられたこれら断片は、明らかに原画を無害なものにしようとした、愚かしい試みの見るも無惨な結果を晒している。これらがオリジナルと同一であると確実視されている理由は、様式的に見てマルカントニオの手になる他の作品にきわめて近似しているということに加え、次のような断片由来の歴史的事実に基づいている。すなわち、大英博物館は一八三〇年、トマス・ローレンス卿のコレクションより九断片を入手したのだが、その際の売立て目録にこれらはマリエットのコレクションより入手と記載されていた。このマリエットなる人物はフランス人の著名な美術品蒐集家である。そして〈イ・モーディ〉の事情に通じていたパリ国立図書館版画室管理官のジョリ氏が書いた一七七五年一二月四日付の手紙によれば、「例の版画家、画家そして詩人を大いなる災難に落としめた忌まわしき原因の痕跡を所有するこの世でただひとりの人物」であった。さらにマリエットがオリジナルの九断片の所有者であったことは、一七五六年五月に彼がある美術品取引きの仲介者に宛てた次の手紙の文面により確かとされている。
「マルカントニオの手になる、“放縦な”版画をお探しいただき、とても感謝しております。これらはおそろしく稀少なものにちがいありません。私はあなたのお送りいただいたこれら断片で満足すべきでありましょう。というのもそれがこの世で唯一残された作品にちがいないとにらんでいるからです。それに、赤面することなくあるいは赤面させることなく人に見せることができるのも、私にとってはより好都合なことです。なぜなら、断片は頭部だけにされてしまっているからです」。
ところが、この九断片の由来を物語るさらなる文書が存在している。石版刷りのそれは、断片について知悉していた何者かが一九世紀にフランス語で記したものだ(現在、大英博物館とパリの国立図書館にそれぞれ一部ずつ所蔵されている)。同文書の作者は、一七七五年パリでマリエット・コレクションの売立て目録より「第三八番、神々の愛を描いた一連の作品二〇葉、きわめて珍品(レア)」と引用し、さらにフランス人彫刻家ジェラールが一九世紀初め頃に顔見知りの食料品商の包装紙となっていた一一種の版画の図案を目にしたことに言及している。そしてこの版画こそ、おそらくマリエットのセール第三八番のマルカントニオによる〈イ・モーディ〉に相違ないことをジェラールが認めたと述べている。その後版画はあるイギリスの公爵のもとに売られ、公爵亡きあと焼却されてしまったという。
また大英博物館所蔵の九断片は、同じくマリエットのセール第三九番の「先番のものと同種の、その他の商品一〇点、同じく珍品(レア)」と記されたものが、コレクターのラルフ・ヴィレット氏の手を経て博物館に入手されたと記している。より詳細な事実を述べれば、まず一七七五年パリのマリエットのセールでラルフ・ヴィレットが一〇断片を購入。次に一八一二年パリのヴィレットのセールでマーク・シークス卿が九断片を購入、これをさらに一八二四年ロンドンのシークスのセールでトマス・ローレンス卿が購入、そして一八三〇年ロンドンのローレンス卿のセールで大英博物館が同様に購入したのだ。
我々が有する次なる手がかり、大英博物館とウィーンのアルベルティーナの所蔵する、完全な姿を留めている一葉の銅版画は、寝台で裸体のカップルが向き合って抱擁する姿を描いているのものだ。それは先述の九断片とサイズをともにするばかりか、様式上の理由から同一画家の手になるものと想定される。よって今日〈イ・モーディ〉オリジナル中の唯一伝わっている完全な一葉と見なされている。しかし両館所蔵の一葉ともその由来については知られていない。ただ一八五八年ロンドンで売りに出されたウォーズリーのコレクションの中に、それにきわめて近似した好色版画があったとの記録が残っている。またアダム・バルッチュが、その著『版画家』叢書(一八一三)の〈イ・モーディ〉についての記述のくだりで、それがあまりに稀少ゆえ、ヴァザーリの記録がなければ存在が疑われるほどであり、その内容について議論するには一連の二〇点のうち(アルベルティーナに所蔵の)一点のみしかん目にし得ないので不可能であると述べ、この完全な一葉について言及している。よって少なくとも一九世紀初頭までは、その由来を辿ることが可能である。
ニューヨークのウォルター・トスカニーニ氏所蔵のソネット本は、所蔵者の主張では一五二〇年代後期の版とされている(ちなみに同氏は指揮者アルトゥーロ・トスカニーニの息子である)。同本は一四のソネットおよびそれと同じ数の木版による挿画を含み、二亡いし六つのソネットと挿画はそれぞれ欠落しているものと思われる。木版の挿画はかなり粗雑であるものの、人物の容姿と体位が例の九断片のそれらと相応している。またこの挿画の一つは、先述の完全なる一葉と一致している。それゆえトスカニーニ本は、マルカントニオの版画に倣ったかなり粗雑な木版挿画入りの、刊年が初版記きわめて近い一書であると思われている。
最後に、大英博物館とパリの国立図書館所蔵なる二組の二〇葉は、ペンとインクのデッサンにグレーの水彩絵具で彩色されている。これらは今日まず間違いなく、フレデリック・ド・ヴァルデック男爵が一九世紀に模写したものと見なされている。大英博物館の二〇葉は一八六八年ロンドンでコルナギ氏より同館に購入されたことまでは判明しているが、それ以前の来歴は不詳である。二〇葉はそのサイズが先述の九断片と完全なる一葉と一致している。しかも二〇葉のうちナンバー1と番号図付けされたものは、完全なる一葉に相応している。さらにそれらのうちの一〇葉はトスカニーニ本の木版挿画と相応し、残りの一〇葉のうちの一葉が部分的に九断片中の一つと対応を示している。よってこの作者はマルカントニオによるオリジナルも九断片についても知っていたようだ。先に紹介したフランス語による石版刷り文書によれば、二〇葉の作者は九断片の存在を知っていたと明記し、そればかりかこの“とある美術愛好家氏”(二〇葉の作者)が一八三一年一月三一日メキシコの修道院でジュリオ=マルカントニオによる完全な二〇葉の版画を発見した経緯をも語っている。
実は同文書の作者もこれまたヴァルデック男爵であった。男爵は一七六六年プラハに生まれ、パリでジョゼフ=マリー・ヴィアン(一七一六-一八〇九)とピエール=ポール・プリュードン(一七五八-一八二三)のもとで絵画を学び、その後水兵や従軍者やときに海賊に身をやつし、世界各国を航海して回った。一八二二年ロンドンでメキシコに関する書物に付す石版挿画の仕事を引き受ける。そして同地に赴き、以来一二年間銀山で技術者としてすごす。男爵がジュリオ=マルカントニオの版画をメキシコ・シティの修道院で発見したと称しているのはその際のことであった。そしてそれらを許可を得て模写したのだった。五八年パリに戻ると、この発見について語った小冊子、すなわちおそらく先の石版刷り文書をものした。また二〇葉の水彩画を、メキシコで発見したオリジナルの模写や彫刻家ジェラールがパリで発見した版画の複製やいつかパリかロンドンで目にしたであろうオリジナルの断片などを総合し描いたと思われる。そして七五年パリで一〇九歳の高齢で死んだ。
ヴァルデック男爵が例の文書の結びで、「一般大衆や不埒な輩には手が届かぬようにするために、国家的財産としてごく少部数高額で出版すべき」と謳った彼の二〇葉はしかし、ジュリオ=マルカントニオによるオリジナルが有するダイナミックで荒々しい迫力を失っている。より客観的で冷めた描写へと置き換えられている。おそらくこれは、師ヴィアンやプリュードンの新古典主義様式に多くを負っているのだろう。とはいえ、それらは隙間だらけの過去のミッシング・リンクを埋めるという、重要な資料的価値を充分そなえている。例えばそのナンバー4の水彩画を見ると、九断片の中の二断片が同一の版画より切り取られたものであることがわかる。そしてさらにこれらはアレティーノのソネットでは、「愛する者よ、そなたの足をわが肩に預けよ、してわがこん棒をそっと柔らにつかんでおくれ」なる出だしの第四番により歌われていることがわかるのだ。
以上、ジュリオ=マルカントニオによる幻の秘画の来歴につき、その本筋と思われるところをごくかいつまんで紹介したが、その霊歴はフィクションと事実が混交しあまりに複雑に入り組んでいるために、当然ながら今まで述べてきたこととは反する多くの異説が存在している(本稿はピーター・ウエッブの小論『アレティーノ、ジュリオ、マルカントニオ、そしてソネット』にその多くを依拠した)。また明日にも従来の諸説をことごとく覆すがごとき大発見がなされるやも知れぬ。あるいは失われた輪は永遠に一つとして見い出されることなく終わるかもしれぬ。いずれにしても、今日我々のもとにより確かなものとして伝わっている断片的な〈イ・モーディ〉の姿を繋ぎ合わせていえることは、次のとおりであろう。すなわち、そこには交合するカップルが、種々の体位を試みながらただひたすら己が欲望を全うせんとする姿が、実に力強い筆致で描かれている。彼らの愛戯は情熱的で、粗野で無骨なほどである。洗練された優雅な趣は見当たらない。ジュリオはそれをマントヴァのパラッツォ・デル・テの好色フレスコ画などと同様に、古代異教の神々の愛の交わりとして筆を走らせたことだろう。しかし神々の愛に仮託するには、あまりに赤裸で迫力に満ち人間味がありすぎた。ために〈イ・モーディ〉が徹底的なる弾圧を蒙る羽目になったのも宜なるかなだ。その消失劇は西洋のエロティック美術史上最大級の損失であった。が消滅するにまかせず、後世、伝説が伝説を生じさせ、アレティーノの好色ソネットの影響力と相まって、あまたの画家たちをしてジュリオ=マルカントニオに倣った愛校図を描かしめるに至ったのも、また事実であった。
[出典:ジュリオ・ロマーノ(1498?-1546:幻の好色版画<イ・モーディ>をめぐって 」(『ユリイカ』24(13), pp.24-31, 1992-12)]